最後にどうしてわたしが今まで生き延びてこれたのか、その要因と思われることについて書きたいと思います。

 

わたしを生き延びらせてくれたものは、振り返ればいくつか思いつきますが、

 

・親が生活を守ってくれたということ、

・好きなことに出会っていたということ、

 

この2つが大変大きかったと思います。

 

しかし、こういう風に要因を考えるといっても、それは結果的にそうだったというだけで、実際のところ、わたしが今まで生き延びられたのは、上のような要因も含めて、

 

ただの偶然、

 

と言うのが本当のところなんだとおもいます。その偶然を「運がよく」と解釈すれば、幸運(ラック)ということになるのでしょうが、偶然生き延びれたからといって、すぐにラックだったというのもどうなんだろうと思ってしまうところがあります。

 

ただ、おれがいまあるのは、おれの力だ、必然だ、などとはなんとしても言いたくないと思っています。

 
 

話を戻して、わたしを生き延びらせてくれた要因であると思われる、好きなことに出会えていた、ということについて話したいのです。

 

わたしにとってそれは演劇でした。

 

中学校から演劇部で、中学3年の受験が終わった後に、30分位の演劇部公演を学校の方が用意してくれていて、もう授業もないし、いじめた彼とも卒業式まで顔を合わせることがないという状況で、10日間位だったでしょうか、毎日演劇部公演の稽古をすることができました。そしてその時、感じたのです、

 

ああ~、演技するのってなんて楽しんだろう、演劇を毎日する環境があるとすれば、そんな素晴らしいことはない、高校入ったら絶対演劇部入ろう、心のうちで誓っていました。

 

それからじゅんいちの演劇人生が始まったのです。

 
 

いじめ後体験記でも書きましたが、高校時代、もし演劇部がなかったら、ぼくにとってはレベルの高い進学校だったので、学力についていけず、中退していたかもしれません。人間不信と劣等感と対人恐怖の地獄の中にいた当時のわたしにとって、演劇部だけが、唯一、自分を表現できる場所だったし、演劇だけは、他の同級生と対等にやりあえていたように思われたのです。

 

学力はどんなに勉強しても、同級生には誰一人として太刀打ちできなかった状況の中で、ぼくなりに投げやりにならず、高校生活を送れたのは、演劇部のおかげでした。

 

また演劇部のおかげで、その場でだけは、人間関係のリハビリをすることができたし(クラスの中では、すごい人見知りの暗い男子でした)、それを通して、高校が卒業になるころには、人間不信や、劣等感は、だいぶ払拭できていました。

 

同期の仲間もみなとても頭のいい人たちだったけど、決してわたしのことをバカにしなかったし、わたしを尊重してくれたし(客観的に見てわたしがわがままを言っている時でさえ)、わたしのことを一人の人間として大切にしてくれたのです。

 

うう、いままた思い起こすと感謝と有難さで涙がでる、、、

 
 

一浪して大学に入学したものの、最も手ごわいやつ、すなわち人間恐怖だけは健在で、いまだ感覚として残っており、典型的な対人恐怖で、大学1年目は一人も友達を作ることができず、2年生になっても、引き続き友達に声かけられない、かけられても意に反して不愛想な態度をとってしまう、キャンパスに同級生がいるのを見つけると、方向転換して逃げてしまう、といった風でした。

 

大学に居場所を作れなかったわたしは、大学2年になってすぐ、再び演劇を始めることを決意し、学外の役者の養成塾に入れてもらいました。毎週日曜日夜に稽古がありました。

 

演劇をやれば高校の時のように、元気がでると思って入ったのですが、既にもううつ状態のピークが近づいていて、養成塾にはいって3か月後には、精神的に破たんして精神科受診となったのです。

 

その前後は、大学も2週間位まったく行けなくなってしまい、それでも日曜日の稽古だけはと思って通っていたのですが、それも限界で、とうとう養成塾の師匠そして、塾生たちの前で、自分のうつ状態のことを告白しなくてはならなくなってしまいました。

 

しかし師匠はわたしに理解を示してくれて、塾生のみんなにも公平な立場で働きかけてくれて、以後、わたしは稽古場に見学だけでもいていいことになりました。

 

普通の演劇の稽古場では、そういうのはNGです。なぜなら全体の士気が下がるから。

 

しかし師匠の英断のおかげで、わたしは、大好きな稽古場に、稽古をしなくてもいていいという特別扱いをしてもらいました。結局20代は一度も公演に出ることはできませんでしたけど、それでも、この養成塾内で人間関係のリハビリをする場を得、また体調のいい時は、一緒に稽古をして、つらい時期をやり過ごすことができました。

 

師匠は弟子に対し大変厳しい人でしたが、それがかえって、へたれのわたしのモチベーションを上げてくれてへたれにだけに終わらず、対人関係の過緊張だけではなく、演劇の道へのプレッシャーをも受けて、稽古場ではうつで調子悪いのだけど、それでもあるポジティブな緊張感をもつことができました。

 

もし師匠に出あっていなかったら、もし演劇に出あっていなかったら、うつ状態の中でとても大学生活をやりきることはできなかったろうと思います。実際、2年留年して6年かけて卒業したのですから。

 

30代になって、うつ状態もかなりよくなって、20代後半にいじめトラウマからの脱出ともいえる事態をへて、今度は、いよいよ社会に出て行くところまで回復していました。

 

20代後半から体調の回復してきたのに合わせてプログラミングの塾に通い始めて、当時まだIT業界売り手市場でしたのでいわゆるIT業界既卒者就職を狙いました。そこでもまた苦労があったのですが、とりあえず、契約社員で働き始めたのが、30歳の時で、幸運にも32歳から34歳まで3年間、同じ現場(職場)に出向常駐させてもらって、だいぶ生活が安定しました。

 

そこで今度は、アマチュア劇団を立ち上げることにしたのです。

 

今更プロ目指して役者なんて一からやれない、なにより体力に自信がありませんでした。

 

アルバイトで生活費稼ぎながら公演なんてことはとてもわたしにはできそうにありませんでした。

 

体力に自信がないのも、うつ状態のせいもあるし、原因不明の筋力の低下というのが、20代半ばに発覚して、特に力仕事等ができなくなってしまっていました。

 

そんな理由で、いくらいじめトラウマとうつ状態が快復してきたといっても、ハードなプロの演劇の世界では生きてはいけないとおもったのです。

 

そこではじめて考えました。このままなんとか社会適応することを重視して、演劇とはさようならするか、と。

 

この問いかけはそんなに長いことわたしを悩ませはしませんでした。ぼくの結論はこうです、やっぱり、一生演劇とさよならするなんて嫌だ、ぼくの人生から演劇がなくなるなんて考えられない、嫌だし、考えれらないなら、やっぱやるしかない、しかし人並みのことはできない、でもそれでもいい、どんな仕方でもいいから好きな演劇をやろう、プロでなくてもいいから演劇を続けよう、そう結論したのです。

 

そのような単純な当たり前の思考の経緯で立ち上げたのが、社会人中心のアマチュア劇団だったのです。

 

そのアマチュア劇団は、活動を開始して今年で丸9年になりました。

 

30代前半は、比較的ITの仕事があり、収入もそこそこあったのですが、長く勤められたのは一か所だけで、あとは、3か月から6か月位の現場を転々として(契約社員としては仕方ないのですが)、しかし仕事がない時は、自宅待機で、特に30代後半は、技術者余りになり、仕事を応募しても決まらない状態が続き、結局30代の10年間で、転々としていた働いていた期間を合計すると、働いていたのは6年間位で、後の4年は自宅待機でもんもんとしていたのです。

 

そんな30代、わたしを救ってくれたのがまたしても演劇だったのです。

 

9年間で、4本の公演をやりました。基本メンバーは社会人(勤め人)なので、日曜日のみの稽古でやっていたのでそんなに多くの回数の公演は打てないのです。結果的には2年に一回くらいのペースで公演をやってきました。

 

その4回の公演のうち、第二回公演と第四回公演は、わたしは無職の状態で、およそ一年にわたり公演の指揮(演出)をとっていたのです。

 

無職状態はやっぱり精神的につらいのですが、自分の作ったアマチュア劇団があるから、おんどとった自分には責任があるから、そういった緊張感があったので、無職の状態でもなんとか腐らず、気持ちをつなげて、持ちこたえることができました。

 

気が付くと、自分がやりたくて作ったアマチュア劇団に、つまり演劇に、わたしは助けられていたのです。

 

もしアマチュア劇団を作っていなかったら、わたしはだらしなくなり、もっと腐って、ただただ焦って、再び社会的にはだめになってひきこもってしまっていたかもしれません。

 

わたしは自分の作った劇団に救ってもらったと感じています。

 

そして、そもそもひとりで劇団を立ち上げるだけのエネルギーが当時出せたのはやはりわたしが演劇が好きで、演劇とさようならするのはどうしてもできないという強い思いがあったからだと思います。

 
 

長々とじゅんいちと演劇のかかわりについて書いてしまいました。要は、

 

好きなことに出会えたことが、トラウマを生き延びる上で大きな助けになったということです。好きなことをやるために結果として、人間関係のリハビリの場が確保され、自己表現の場が用意され、気持ちの上での張り合いができ、つらいトラウマ後のサバイブの中にあっても大きな慰めになったこと、そして好きなことをするためには、人の中へ入っていかなければならないから、人との出会い、直接的間接的に支援者となってくれる人との出会いをも媒介してくれたようにおもいます。

 

そして、生きる喜びをも教えてくれました。

 

今日は、トラウマ後を生き続けるために、どれだけ好きなこととの出会いが大切であったかの話をじゅんいちの実体験をもとに書かせてもらいました。

 

読者の皆様ももしいま、好きなことと出会っているならば、ぜひそれを続けてほしいとおもいます。

 

なんだかぼくもよくはわからないけど、好きなこと、同じことをずっと続けるというのはとても素敵なことだとおもいます。そして好きなことは、自分が勝手に追いかけるだけではなくて、自分自身を助けてくれるということを知っておいてほしいとおもいます。

 
 

親愛なる読者さま

 

つらい悲しいの時にあってもまた、やさしい慰めもありますように。

 

しもむらじゅんいち

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