こんにちは、しもむらじゅんいちです。

7月4日のミーティングの中から少し振り返りたいとおもいます。なんだか、仲間の話をきいていて、じゃあ一体どうしたらいいの?と思ってしまいました。

 

いじめって簡素化していえば、ある集団があって、その中で、誰かが、一人もしくは複数の人からいやがらせを受ける、ということだと思うのですが、でもそこには、なんらかの自由があるとおもうんですね。

 

例えば、ある職場で、完全に仕事の内容が管理されていて、仕事だけでなく、その人の思いや、一挙手一投足まで、決められていれば、そこに、いじめが付け入る隙はないでしょう。

 

しかし、いくら仕事と言えども、やはり自由があって、仕事を結果という形で残せれば、むしろ、その他のことは、(職場環境に悪影響を及ぼさない限りは)適当にあるいは好きにしていい、というのが実際のところではないでしょうか。

 

だからたとえば、お昼の休憩のときに、誰と一緒にお弁当を食べてもいいし、どんな話をしてもいいし、自由なわけです。この位の自由はゆるされていいというのは極めて常識的な線だとおもいますが、この自由が、結果としていじめを招くことにもなってしまうのです。

 

お昼の休憩のとき、仲間外れにされて、一人ぼっちにされる。職場では、仕事のこと以外、口を聴いてもらえない。周りのひとに気づかれなければ、あるいは第三者から文句さえいわれなければ、同僚をけなしてもいい、みたいなことです。

 

自由は、また、「いじめる自由」でもあるのです。もちろんこんな自由があっていいわけはない。

 

ところがしかし、自由を認めるから、こういういびつな人間関係が生まれるのだから、すべて管理してしまえばいいかというと、それでは人間ではなく、お仕事ロボットになってしまいます。そんな職場で働きたい人はいないでしょうし、みんな息が詰まって、生命力がしぼんでしまいます。

 

自由を与えれば、勝手なことするし、管理すると、やっぱり息が詰まって、活気がなくなってしまいます。人間の活動には、ある程度の自由は最低限必要だし、それでこそ人間本来のよさが発揮できるはずなのです。

 

でも、実際は、教室でも、職場でも、ひとり一人が個性を生かしてのびのびとというわけにはいかず、むしろ、力の闘争の中で、自分を守るのが苦手な人が、力のある人のストレスのはき溜めにされてしまっているということが、日本社会至るところ(教室・職場・そのグループ)に蔓延してしまっているということが、いわゆる、いじめの社会問題化ということで言われていることなのだろうとおもいます。

 

じゃあどうしたら、いじめというこのいびつな人間関係を社会から追い出し、自由で、同時に相互尊重的な人間関係を基調とする社会を実現できるでしょうか?

その答えはじゅんいちの場合は相も変わらず次のようになるのです、つまり、

 

自由でありながらも、自分を律しつつ、自分に対しても他者に対しても大切にしてあげられるような人格性をひとり一人が自己の内に培っていくこと、

 

このことにつきるのです。

というかこれを目指すしかないということでしょうか。

 

自分のためにも、大切な友人や家族のためにも、私よりも年老いた人のためにも、子どもや若い人たちのためにも、自分がそのようになっていくのを求めて、願っていくしかないよなあ、とおもうじゅんいちでした。さしあたりは自分の中の悪意をどうにかしなきゃならんのですが。

 
 

あなたのいじめ体験の痛みと苦しみが、少しでも緩和され、やさしい慰めもまた与えられますよう、おもっています。

 

しもむらじゅんいち