以前の記事で、

 

おのれの精神性の深さに対する自負心こそ、人間の究極のプライド(名誉心)ではないか、

 

と書きましたが、つまり、わたしは、プライドと誇りを区別しているわけです。

 

プライドprideはむろん、英語で、意味を引くと、「誇り、自尊心」とありますので、したがって日本語の「誇り」と意味の上では、違いはないわけです。ですがわたしはこの二つを使い分けています。

 

さてじゅんいちのいうプライドとは、「他者との比較における誇り・自尊心」のことです。

 

例をあげると、

・学校でずっとテストで一番だったことのプライド

・一部上場企業の社員であることのプライド

・家族を養って子どもを大学まで出してやったことのプライド

・経済的に自立していることのプライド

・社会的に有名であることのプライド

・特定の宗教の信仰をもっていることのプライド

などなど。

 

わたしは、例を出すのが下手です。ごめんなさい。上に共通するのは、全て、他と比較して言えることだと思います。言ってしまえば、人並み(以上)であることのプライド、といってもいいかとおもいます。

 

まあ誰だって、自分は人並み以下とは思いたくないし、もしそうおもっているとすると、それはせつないことでしょう(ここで、「人並み」とはなんぞや?ということには触れないでおきます)。

 

それに対して、じゅんいちの言う「誇り」とは、

「おのれのかけがえのなさという絶対的価値における誇り・自尊心」のことです。

おのれのかけがえなさとは、簡単に言えば、この自分が古今東西たった一つしかない存在であること、唯一無二の存在であること、を言っています。

 

槙原敬之さんの大ヒット曲「世界にひとつだけの花」の詞に出てくる、

 

  

ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン、

 

というやつですが、そのオンリーワンのことを唯一無二とかいうわけです。世界にたった一つしかないものはもっとも価値のあるものであって、それは他との比較を絶している、と考えます。

 

世界にたった一つしかないもの、欲しくないですか?そしてじゅんいちはこの人間の唯一無二性に「人間の尊厳」をみるのです。尊厳とは、尊く厳かなことであり、その特質は、「不可侵性」です。不可侵性には、二つの解釈があって、

 

①侵してはならないこと

②侵すことのできないこと

 

①の解釈をとると、尊厳は侵すことのできるものとなってしまいます。つまり傷つけることができるのです(その解釈で言う尊厳こそプライドでしょう)。

 

その一方で、②の解釈をとると、尊厳とは侵すことのできないものということになります。

 

わたしは、人間の、自分の唯一無二性は、比べられたり、侵されたりできるものではなく、比較を絶した誰にも侵すことのできない絶対的価値のことだと考えます。

 

つまりじゅんいちがいいたいのは、自分の唯一無二性、自分の存在の本当の尊厳に気づいた時、槙原さん流のメッセージでいえば、自分がもともと特別なオンリーワンであることに気づいた時、人は、その中で安らぎを覚えるのではないかということです。

 

わたしはおのれの唯一無二性に気づいてはじめて、安心さという希望を見出したのだと思います。そして、以前の記事でも取り上げましたが、自分のいじめ体験で自分の人生が台無しになったのではなく、自分の理想的プランとしての人生は台無しになったかもしれませんが、自分のもっとも大事な唯一無二性や尊厳は全く傷つけられておらず、自分が自分の人生をそうであるように生きてこられたのだ、という事実に気づけたのです。

 

ぼくがもっとも怖かったのは自分が自分で無くなっちゃうことでした。でもぼくは、一度たりとも自分自身でなかったことはなく、しもむらじゅんいちとして存在し続けているということに安どし、安らぎを見出したのです。

 

それが、じゅんいちの言う「誇りをもって生きる」ということの意味です。もともと特別なオンリーワンとしておのれを生きるということです。そこにこそ、人間としての誇りがあるのではないでしょうか。

 
 

親愛なる読者さま

 

辛い悲しいの中にあってもまた、やさしいなぐさめもありますように。

 

しもむらじゅんいち