人を尊重するとはどういうことでしょうか?

 

わたしは中三の一年間同学年の「彼」に次のように言われていました。

 

バカは笑うな、勉強しろ

バカは遊ぶな、勉強しろ

 

いじめに限らず、多くの人は他人から尊重されなかった経験をもっていて、少なからず傷をもっているように思います。

 

今回は、人を尊重することについて、最近考えていたことを書きます。

 

人を尊重するとは、次の3つのことを尊重することだと思います。

 

①感情の尊重

②判断の尊重

③欲求(意志)・行動(活動)の尊重

 
 

①感情の尊重

人には色々な感情がありますが、それ自体はいいも悪いもなく、無条件にあっていいものです。

例えば、悲しみや憎しみというネガティブな感情も、その人に生じてしまうのはどうしようもないことであり、そんな感情を持ってはいけないというのは、その人に暴力をふるうようなものです。

感情を否定されたり、抑え込まされることは、すごいストレスですし、それが続くと、大人になってから自分の本当の感情がわからなくなってしまい、本当の自分を生きれなくなるのです。

 

泣きたいときは泣いていいし、それは基本受けとめられるべきことであり、誰かに怒りや憎しみを感じること自体も悪ではなく、ただ注意しなければならないのは、怒りや憎しみの表現の仕方であって、それさえ間違わなければ、怒りであれ憎しみであれ、どんな感情も感じていいし、それは尊重されるべきものなのです。

 
 

②判断の尊重

人は、大人はもちろんのこと、子どもでも、自分のことに関しては、自分なりの判断をします。

しかし、「勝手に判断するな」「判断するなんて生意気だ」「おれに従え」のように、しばしば、相手が判断を押し付けてきて、自分が自由に判断するのを相手が許そうとしない、そういう場面に遭遇します。

しかし、自分のことに関しては、その判断が成功であっても、失敗であっても、責任は自分がとるしかありません。

だから自分のことに関しては、自分が判断していいし、周りの人はそれを尊重するしかないのです。

 

もし相手の判断を尊重できないとすれば、それはその人が相手を支配しようと思っているか、相手の人生を自分の人生の一部と勘違いしているか、あるいは、相手を全く認めてない、信頼してないからではないでしょうか。しかし、いくら認めてなくても、信頼していなくても、わたしの人生の責任を誰かがとってくれるわけではないので、やはりその人の判断は尊重されなければならないし、尊重するしかないのです。

 
 

③欲求・意志・行動の尊重

人にはみんな、欲求・やりたいことがあります。人は欲求し、自分の選んだ活動をせずにはいられない存在です。そして活動(多くの場合それは人との関係の中)を通して、自己を実現するものなのです。

その人の意志で起こした行動(あるいわ活動)は、彼という人間を現しています。その意味で、そのような行動はどんなことであれ尊重されるべきです。

 

成人までの成長過程の中で、家庭でも学校でも、常にやりたいこと、好きなことをするのを制限され否定され続けると、大人になってから、自分は何がやりたくて、どう生きたいのかがわからなくなってしまいます。

 

同様の過程で、自分の欲求や意志、やりたいことが尊重される環境にあれば、自分の得手不得手や好きなこと嫌いなことも見つけられ、やがて大人になった時、自分の判断と思いで、自分のやりたい活動を、自分自身が尊重することによって、社会(人間関係)の中で遂行できるようになるなるのだと思います。

 

それが自己実現ということではないでしょうか。

 
 

中三の時わたしをいじめた「彼」は学年トップの学力の生徒で、わたしは、それに比べるとだいぶ知能程度は落ちるかもしれませんが、それでも一生懸命、いい成績を取りたいと思って自分から勉強していました。

 

そんなわたしが「彼」に屈伏してから、「彼」はわたしに次のように言い続けたのです。

 

バカは笑うな、勉強しろ

バカは遊ぶな、勉強しろ

 

彼の前でわたしは、「笑う」(感情)ことを禁じられ、「遊ぶ」(欲求)を禁じられ、お前はバカだ、という判断を押し付けられ、それに屈してしまいました。

お前はバカだから「勉強」(苦役)だけしてろというのです(報われないことがわかっていながら)。

 

人を尊重する(大切する)ための要素が、そのまま人を踏みにじる(いじめる)ための要素にもなる。

 

①感情②判断③欲求・意志

 

この3つを尊重することが相手を大切にすることであり、またこの3つを否定することが相手を踏みにじることなのではないでしょうか。

 
 

そして残念ながら、学校社会だけでなく、この「人を踏みにじる行為」が、大人の実社会においても少なからずあるということは否定できない事実です。

 

しかしわたしは、自分が尊重されることを心から願っています。

 

そのためにわたしができることがあるとすれば、それは、まずわたしが他者のことを尊重できる人間になる努力をすることではないかと思うのです。

 
 

親愛なる読者さま

 

つらい悲しいのときにあってもまた、やさしい慰めもありますように。

 

しもむらじゅんいち

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