恥ずかしながら年来私は、たとえどんなに一生懸命がんばっても、結果が伴わなければダメだ、と思ってきたふしがあるように思います。

 

その考えは、長らくわたしにプレッシャーを与え続け、苦しめてきたもののようにも思います。

 

中三の時のいじめで、加害者の「彼」に言われたことは、

 

「バカは笑うな勉強しろ、バカは遊ぶな勉強しろ」

 

でした。

 

これはすごい侮辱で、私にとっては屈辱の言葉ですが、私は彼が恐くて、でも何とか勉強で見返したいという気持ちもあって、中三の時いじめられながらも悲しいくらいに一生懸命勉強していました。

 

でも絶対に「彼」には勝てなくて、やっぱり知能指数が一枚も二枚も上だから、いくら自分としては一生懸命勉強しても彼には全く追いつけないのでした。

 

そして学内の定期テストが終わるたびに、成績表を取り上げられて、

 

「お前、頭悪いんじゃないの!」とののしられていました。

 

そのことがあって以来、いくら一生懸命頑張っても、結果がだめなら、そんな自分にオーケー出せなくなってしまいました。どんなに一生懸命やっても結果が出せないなら、クズだ、そんな意地の悪い考え方を「彼」に叩きこまれたように思うのです。

 

それはどこか現代の日本の、「ブラック企業」という言葉が象徴しているような、人を見ず一層の効率化と人件費の削減による利益を最大化させることだけに注力している日本の企業社会の傾向と似ているようにも思えるのです。

 

費(つか)えるだけ費って、人的資源としてのパフォーマンスが落ちてきたら、つまり結果が出せなくなったら切り捨てる、がんばってもそのがんばりがある特定の結果につながらなければ評価されない社会になっているように思います。

 

もちろん仕事の世界は結果の世界かもしれませんが、その人のがんばりを認めて評価するあり方がなければ、人は育たないと思うのです。

 

私自身に最近あったことですが、仕事というほどのことではないのですが、頼まれごとをして(町内会の仕事のようなもの)、それをやる中で、自分は誠意をこめて一生懸命やっているのだけど、もし落ち度があったらどうしよう、自分のやったことに欠陥があったらどうしよう、責められるのではないか、軽蔑されるのではないかと怖くなって、体が縮こまっている自分に気付きました。

 

しかし、思ったのです、一生懸命やっているのなら、結果はどうであれ、自分を責めるのはやめよう、恐れるのはやめようと。

 

結果がダメなら、その努力も意味がないなんて、ひどい言い草だ(意地悪だ)、一生懸命やっていたのなら、びくびくする必要はないし、堂々としていればいいのだ、とやっと少し思えるようになった気がします。

 

たとえ悪い結果になったとしても自分を責めない、否定しない、自分を信じて認めてあげようと思ったのです。もっと自分の頑張りや一生懸命さを認めてあげよう・評価してあげようと思い始めたのです。今までほとんど自分の頑張りを評価しないで無視してきた自分に気付きました。

 

効率主義、結果重視が一層苛烈化して、人の思いを見ないでロボットのように見る見方が知らず知らずの内に社会の底流に、そして随分若いころから自分自身に浸透していたのかと思うと、過去のいじめられていた時だけでなく今現在のこととして怖いなあと思いました。

 

まずは、自分の頑張りや一生懸命を自分がしっかり認めて評価してあげることから始めていきたいと思います。

 
 

親愛なる読者さま

 

辛い悲しいの時にあってもまた、やさしい慰めもありますように

 

しもむらじゅんいち