• 投稿 2018/02/14
  • コラム

現実は何でもありだ!

 

と聞いてみなさん、ぴんとくるでしょうか?結構、過激な文ではないかとおもいます。

わたしがこういうことが腑に落ちたのは、10年ほどくらい前のことですが、それ以来、わたしにとっては、自己肯定ということを考えるとき、大切な教訓というか、現実理解となっておりました。

 
 

しかし、最近になって、いろいろ揺らいでいます(-_-;)。

グラグラグラ~

 

よくこんなことを聞きます、

 

「○○だけは絶対にいや!」

「○○なんてことは絶対にあってはならない!」

 

しかしまあ、いじめサバイバーという立場から言えば、絶対にあってはならないことが、現に起きたし、絶対にいやだったことが、やはり現に起きたのです。

 

わたしにとってはいじめ体験はそういうものでした。

 

そしていじめ後は、あってはならないことを、打ち消すことにやっきになって、神経すり減らし、起きた現実が受け入れられなくて、苦悩しておりました。そしてそんな過去をもつ自分を受け入れられなくて、ずっと自己否定してきたのです。

 
 

しかし、どうも、この世で絶対にあってはならないことなんて、ないんじゃないか、というふうにおもえるようになってきたのです。

 

つまり

現実は何でもあり

、ということです。

 

何でもあり、とは、何でもあっていい、ということでしょう。あってはならないとは、ある現実(他者、出来事)を否定することですが、何かある現実を否定するとは、結局自分自身の何かを否定することのなのです。

 

端的な例を言えば、あなたの「ここ」がゆるせない、あってはならない、といった時、同時にわたしは、わたしの中にある「ここ」のことも否定せざる得なくなるのです(「ここ」は現に自分の中にあるのに)。

 

あなたの傲慢なところがゆるせない、と言えば、自分の傲慢なところもゆるせなくなるはずだし、あなたの卑怯なところがゆるせない、と言えば、自分の卑怯なところもゆるせなくなるはずです。

 

(実際には、ひとのことはゆるせないと言っておきながら、自分のことには目をつぶる(ゆるす)ひとがいます。それをいんちきというのです。でも、ひとのいんちきをゆるせないと言ったら、自分の・・・・)

いじめたひとがゆるせない、というかもしれません。それはオッケーだとおもいます。わたしもある意味そうです。なんていうか、そのひとの自分の中での存在感がゆるせないって感じですかね。

 

ただ、「いじめたひと」と表現するのではなく、「あなたの邪意がゆるせない」、と言い換えたらどうでしょう。邪意のないひとがいるでしょうか、一度も邪意をもったことがないひとがいるでしょうか、邪意は、意志で避けることができるものなのでしょうか、という難しい問題が潜んでいるようにおもいます。(戦争をするひとはゆるせない、というのも同じ理屈で考えたらどうでしょう)

 

他者という現実を否定することは、結局、自分自身という現実を否定することなのです。つまり、どんなあなたでもいいよ、といえてはじめて、自分もどんな自分でもいい、と思えるようになるのです。

 

他者の現実の無条件の受容(どんなあなたでもいい)がはじめて、自分の現実の無条件の受容(どんな自分でもいい)を可能にするのです。

(逆から言うこともできますね、自分の現実の無条件の受容(どんな自分でもいい)がはじめて、他者の現実の無条件の受容(どんなあなたでもいい)を可能にする。)

(現実はなんでもありだ、というときは、他者の現実も自分の現実も一緒にして考えています、。つまり、どんな現実があってもいい。)

 
 

ぼくの場合なら、臆病な自分、弱虫な自分、低能な自分、無様な自分、いじめられて泣き寝入りをした自分も、全部あっていいといえるのです(ぼくは昔はそんあ自分がゆるせなかった)。それが、無条件の自己肯定ということではないでしょうか?(実はそれは相当覚悟のいることであり、かなり過激なことです)

 

だから、「○○だけは絶対に嫌!」「○○は絶対にあってはならない!」というひとは、結局、○○な状態になっている自分が絶対に嫌ということであって、○○な状態にある自分は、受け入れられない、否定する、つまり部分的自己肯定しかできていないのであって、一歩間違えば、自己否定地獄にいつでも落ちてしまう危うさをもっているのです。

 

ニートは絶対に嫌だといっても、会社にリストラされて、無職になることもあるじゃありませんか。

 
 

自己肯定とは、本来、「無条件の」自己肯定であって、部分的自己肯定は常にその内に否定を内包しているものなのであって、いつその(自己)否定の脅威がおそってくるかわからない大変頼りないものなのです。わたしはこの部分的(相対的)自己肯定というあり方を「プライド」と呼んでいます。

 

つまり、現実はなんでもありだ、といえてはじめて、自分のことも、どんな自分でもありだ、あっていいと肯定できるようになるのです。社会的に、もしくは精神的に、どんなに小さく、弱い自分、あるいは、低い自分になったとしても、それをあっていい、自分はあっていいと言ってあげられるようになるのだとおもいます。

 

今更ながら、そうなりたいなあと切におもいます。だって社会的だろうが精神的だろうが、なんであろうが、そんなの関係なく、そもそもわたし(ひと)は、無条件的・絶対的(にあっていい)存在なのだから。

 

そして話は戻りますが、しばらくの間、そんな風に、現実はなんでもありだ、どんな自分であってもいい、と思えるようになっていたのですが、最近、じゅんいち、自分のこと、これはだめ、あれもだめ、ということが多くなって、つらーいです。社会的、精神的にかっこういい自分が恋しいのです、これを煩悩とでもいうのでしょうか。そのせいか再び、現実を受け入れずらくなって、自分のことも受け入れずらくなって、結構苦しいです。もう一度、現実は何でもありだ、ということの意味をよくよく味わってみたいとおもいます。

 
 

親愛なる読者さま

 

つらい悲しいのときにあってもまた、やさしい慰めもありますように。

 

しもむらじゅんいち