以前、このブログでわたしの演劇の師匠の話をしたのですが、他にも印象深くおもったことを思い出したので、この場でシェアしたいとおもいます。

テーマは「同情」についてです。

 

それは、ある公演(師匠の主催する)が終わった後の、稽古場でのことでした(当時わたしは日曜塾と言う役者養成所に通っていました)。

 

その公演はお客の入りが悪く、結構な赤字だったようでした。わたしは、うつ病のため公演のお手伝いでしかなかったのですが、他の塾生は、ベテランと並んで数人出演していました。そして、出演する場合は、やはり、観客の動員は、ノルマこそなかったものの、必須のことなのです。観客動員はすなわち収益とひとつながりのことです。

 

まあ、理想的には、出演者一人30人位はチケットを売ってほしいところです(なんだ、観客動員を出演者に依存するのか、しょぼい師匠やな、とか思わないでくださいね、
すごい偉い師匠なのです)。

 

公演が終わった直後の稽古では、テーブルを囲んで、合評会とかをやるのですが、そこで、巻頭、師匠が言った言葉は、おまえら、同情も必要だぞ!でした。

 

主宰は師匠なので、赤字を背負うのは師匠になります。今回は、赤字が出て、師匠の気持ちはしょぼんだったわけです。それなのに、わたしたち塾生は、そんな師匠のことはおかまいなしで、わいわい楽しそうにしていたのでしょう、そして、それが気に障って、上のようなことを言ったのだと思います。

 

その言葉で、みんなしゅんとなりましたが、その言葉を聞いて、わたしは、そうか!とおもいました。同情の意を示すということも大事なことなのだ、と。わたしたちって、結構、「同情」という言葉を嫌ってきたようにおもいます。

 

同情なんかされたくない!なんてよくあるせりふじゃないですか。またカウンセリングの本とかを読むと、クライエントに同情するなんて、失礼この上ない、とか書かれたりしています。それもそうなのかなとか、なんとなくおもっていたのですが、それとは真逆の師匠の言葉、同情も必要だぞ、という言葉を聞いて、はっとして、目をさまされた気がしました。

 

本当にかわいそうなひとのことを、上から目線とか、そういう難しいこと言わず、素直に率直に、かわいそう、と言ってあげること、そういう言動を相手に対して取ること、これはとても大切なことなのではないかと思うのです。人はだれも弱っている時には、やさしくしてほしい、と思うのではないでしょうか。そして、弱っている相手にやさしくするのは、相手に同情しているからでしょう。

 

3.11の大震災と原発事故の被災者に対し、全国の人々が、支援するのは、家族を失ったり、故郷を追われることになった方々に同情したからでしょう。かわいそうにとおもったからでしょう。人間の心に同情心がなくなったら、日本は、いや世界はあっという間に破滅しちゃうんじゃないでしょうか。

 

わたし自身も、いじめられて、トラウマになって、うつ病にもなって、いまも治らなくて、大いに同情されたいし、かわいそうと思ってもらいたい。わたしはいまでも同情大歓迎です。そしてわたし自身も、かわいそうなひとをかわいそうと思え、またやさしくしてあげられる人でありたいとおもいます。

 

上の例ですが、同情なんかされたくない、という発想は危険だと思います。一見誇り高そうですが、同情されたくないから結局誰にも相談できなくて、自死にいたることになってしまうとすれば、一体何のための誇りでしょうか。これはむしろ、過酷な現実にあって生き抜く力を弱くする発想ではないでしょうか。カウンセリングの本の例でも、相談者をかわいそうなどというのは失礼だ、とありますが、じゅんいちはそうは思いません。かわいそうなひとにとって「かわいそう」と言われることがどんなに助けになり慰めになることか、とおもいます。

 

最近は、「自己責任」などという言葉で、より一層自分の苦しみ・辛い状況を他者に開示するのを難しくする風潮があるようにおもいます。また「かわいそう」を認めてしまうと、認めた相手に対して、責任を取らなきゃいけない、そんなのごめんだ、という利己的な責任逃れがあるようにおもいます。つまりそこに、かわいそうなひとには、手を差し伸べなければならない(たとえ自分が順風満帆でなくても)、という人間としての真実が隠されているのではないでしょうか。

 

いじめを含め、わたしたちが、その傍観者になるのは、誰かをかわいそうだ感じている自分を見ないようにする、という自己防衛がかかっているのかもしれません。(かわいそうでなければ手を差し伸べる必要はないですから)わたしには、人のことや世間の出来事に無関心で、真実を知ろうとしない怠惰さがあるし、知ってもかわいそうだと思えない鈍感さもあります。

 

また、相手のことをかわいそうだと感じていても、素直にそれを認めて、手を差し伸べられない臆病さもきっとあるでしょう、しかしその一方で、かわいそうなひとを放っておけなくなった自分もまたあるのです。できることなら、かわいそうな人に率直にやさしくしてあげられる、そんな自分でありたいと願います。いじめ体験・いじめ後体験はわたしにそんなことを教えてくれたのです。

 

久しぶりに十数年前の師匠の言葉を思い出しながら、こんなことを思いました。

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