むろんわたしはいじめ体験の第一人者でもなんでもないわけです。

強いて言えばわたしは下村順一の第一人者です。

 

トラウマを背負って生きていくことは大変なことですが、それでも時間かせぎしながら、様々な出会いや出来事を通して、回復していくという事態がおこります。

(「回復」ということについては、今回は触れないでおきます)

 

トラウマとトラウマを生き抜いて回復していくことは大変深い体験でもあるわけです。

 

そうやって回復した人たちはきっと深い精神性をもちあわせるようになるのだととおもいます。

 

(深い精神性とは、深い現実洞察・人間理解といったところでしょうか)

 

しかしここに落とし穴があるわけです。

つまり例えば、ひどいいじめを受けて、その後も困難な人生を生き抜いて、その結果深い精神性に到達して、回復してきたわたしは、まさしく、いじめの第一人者である、と錯覚してしまう落とし穴です。

 

いじめの第一人者なんていません、それぞれが自分のいじめ人生の第一人者になるだけです。

 

たしかにトラウマからの回復と言うのは、深い精神性(深い洞察や体験)を伴うもので、ひょっとしたらそれは、宗教的なもの、悟りとか、啓示とかいうものとつながるような深さかもしれません。

 

わたしが落とし穴と言うのは、回復したと思っているひとが、あるいは生き抜いてきた人が、自分は、そういう深いところまで到達している、ということに自負心をもってしまって、結果、不遜、傲慢になってしまうことを言っているのです。

 

わたしおもうに、おのれの精神性の深さに対する自負心こそ、人間の究極のプライド(名誉心)ではないか、と思うのです。そして昔から、究極の名誉欲とは、自分がもっとも深い精神性を持っているという点において、みなから尊敬されることにあったのではないかと思うのです。生活にも困らず、権力をも手に入れた人間が最後に求める欲望は、尊敬されたいというおもい、つまり名誉欲なのではないかとおもいます。

 

しばしばトラウマサバイバーと呼ばれる人たちの中には、この名誉欲の虜になることがあります。残酷なトラウマ体験と、それでも生き抜いて回復してきた自分にいちじるしい自負心、プライドをもっている人がいるのです。わたしは(おれは)、○○トラウマの第一人者だ、と。

 

これはわたしはよくないことだとおもっています。なぜならそういう自負心を持った人たちは、傲慢になり、他人の弱さに対して無理解であり、他人の苦しみを自分の尺度で判断・評価するという、他者に対して一番無礼で乱暴なことをやってしまうのです。もしかしたらかつてはそれで、自分自身がきずついたのかもしれないのにです。

 

ひとの弱さに敏感でやさしくないのに、何が先ゆく仲間だ、回復者だとおもうのです。自負心はプライドにつながり、プライドは、結局、欲望にすぎません。わたしは、彼らがどんなに深いことらしきことを語ろうとそういう不遜さを感じる時は、そのひとを用心します。そしてそういうひとに限って、いかにもわかったように相手を評価したり、説教したり、裁いたりするのです。

 

みなさんの周りにもいませんか?そういう第一人者顔しているサバイバーが?!

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