今回は、鴻上尚史さんの「いじめられている君へ」というメッセージ文について一いじめサバイバーの立場から思ったことを書いてみたいとおもいます。

 

もしいまいじめられている小学生中学生にこのメッセージが届いたら、この言葉で救われる人もいるとおもいます。ただ、救いにならない人もいるとおもうのです。

救いになる人はそれでいいので、わたしは、救いにならない人が、どうしてならないのか、ということについて書いてみたいのです。

 

もしぼくが(じゅんいち)が、中学生のとき、このメッセージに目を通していたら、ぼくの人生はどうなっていただろうかと考えてみます。

 

「あなたが今、いじめられているのなら、今日、学校に行かなくていいのです。」
「あなたに、まず、してほしいのは、学校から逃げることです。逃げて、逃げて、とことん逃げ続けることです。」
(「いじめられている君へ」鴻上尚史)

 

ぼくにとっては、逃げるという行動に出ることは、いじめが発覚・公表されることを意味することであり、もっとも恐ろしいことだったかとおもいます。いじめ体験にも大して傷つかない場合と、既に激しく傷ついている場合があるのだとおもいます。場合というか、段階なのかもしれません。

 

逃げるという行動ができるのは、「自分が不当に迫害を受けている」という自覚があるときのみではないでしょうか。こういう自覚がある人は、たとえ「卑怯にも」複数人から殴られたとしても、大して傷ついていないのです。

 

傷つくとは、現実理解が歪むことです、しかし、いじめを受けて、自分が不当に迫害を受けているので、逃げるというのはものすごくまっとうな現実理解なのです。正しいです。こういう自覚がある人は、いじめと闘うことができるし、強靭な人ならば、いじめ加害者のボスを機をみて叩きのめす(タイマンして打ち負かす)こともできようし、小柄な人なら、親や大人に訴えて、不登校を決め込んで、事態の改善を待つ、ということもできるとおもいます。その場合、不登校・逃げるのは「勇気ある撤退」であって、もちろん、負けではなく、それはいじめ加害者に対する抵抗であり、立派な闘いであるとおもいます。

 

ぼくは、鴻上氏の逃げろメッセージを読んでいたとしても逃げれなかったとおもいます。なぜなら、ぼくはいじめがはじまった初日から、正確に言えば、「彼」に「ゆるしてください、と言え!」と脅迫され、それを言ってしまった瞬間から、激しく傷ついていたからです。

 

いじめで傷つくとは、自分の体験が、いじめ(他者からの不当な迫害)ではなく、その体験によっておのれの負の部分があらわになり、もはやそれが自分の本質であると確信するようになることだとおもいます。つまり、いじめ(加害者)が問題なのではなく、いじめを受ける自分が人としてクズなんだと思い込むことなのだとおもいます。

 

いじめによって激しく傷ついてしまった人は、失望感と無力感に圧倒されます。いじめ加害者に対し、抵抗する気力など持っていないのです。あるのは、おのれに対する失望感と無力感と、そして恐怖です。いままで自分が大切にしてきたものが、自分の価値あるところだとおもっていたのものが、否定され、破壊されていくのを、ただ怯える凍える心で見ていくことしかできないのです。無力感は、親や大人でさえも自分を救えないと確信させ、救われる価値が自分にあることすら、もはや信じられなくなっていたのです。

 

そんなぼくにとっては、「とにかく逃げろ」というメッセージは、おそらく救いにはならなかっただろうとおもうのです。

 

これは、ぼくしもむらじゅんいちのいじめ体験ですから、決して他の人もそうだという気はもちろんありません。ただ、いじめ体験の中で、加害者からの人格否定によって、おのれ自身の失望感や無力感に圧倒されているいじめ被害者は多いと思うのです。その中では、いじめ加害者に抵抗するのはもちろんのこと、いじめられているという事実を他者に知られること、つまり、自分が愛される資格を既にもう失ってしまったという事実が明るみに出ることはもっとも恐ろしいことであり、それは親であればなおさらのことだとおもいます。

 

ひどいいじめから「逃げる」という行為を起こせる人は、小学生中学生レベルでは、精神的にかなり図抜けた人にしかできないことのようにおもうのです(これは精神科医の斉藤学さんがどこかで書いていたようにおもいます)。

 

いじめストップ!ナビ、といういじめ対策サイトを運営している荻上チキさんの講演で彼のいじめ体験のエピソードを聞いたことがありますが、彼のような人を図抜けた人というのだろうなあとおもいました(むちゃくちゃ頭きれる)。

 

そしていじめサバイバーは、いじめ体験において、抵抗することもできず、誇り(自尊心)を奪われてしまった体験を持つ人がその当事者になるのだとおもいます(注:これもじゅんいちの私見で何もそんな定義が決まっているわけではありません)。抵抗できた人、最後の誇りは死守できた人は、成人を過ぎても傷跡(生き辛さ)を残す、いじめサバイバーとはちょと違うようにおもいます。

 

その辺が、いじめトラウマが、人にわかりやすいが、同時に人にわかられにくい原因になっているようにもおもいます。いじめ体験者といじめサバイバーは似ているけど、一緒じゃないということでしょうか。逃げること、これは勇気ある撤退でありますが、しかしそれを実行するのは、十代の人にとっては、ものすごく困難なことのようにおもいます。また、ただ不快な体験をしただけで、安易に撤退できるという環境・社会状況があるのだとするとそれはまた問題なのだともおもいます。

 
 

ぼくは、いじめサバイバーなので、いじめサバイバー支援をやっていきたいとおもうのです。いじめサバイバーにとっての救いとはなんなのでしょうか?

 
 

親愛なる読者さま

 

辛い悲しいの時にあってもまた、やさしい慰めもありますように。

 

しもむらじゅんいち