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以前の記事で、
>そして残念ながら、学校社会だけでなく、この「人を踏みにじる行為」が、大人の実社会においても少なからずあるということは否定できない事実です。
ということを書いてしまいましたが、これだけだとなんか救いがないような感じなので、トラウマからの回復ということにちなんで、もうひとつの真実について考えるところを書いておこうと思います。
大人の社会でも、弱い立場の人に手を貸してくれる人、依存させないで、1人の人として、向き合って、付き合って、配慮してくれる人は、必ずいます。
わたしもそうした支援者に大幅の恩恵をうけて、そのおかげで今わたしは生存しているのです。
これもまた真実なのです。
だからどうぞ出会いをおそれないでください、求めることをあきらめないでください。
わたしたちの心の傷、障害は、人間関係の傷であり、要は、対人関係障害です。
そして、人間関係で傷ついたものは、人間関係で癒して治していくしかないのです。
それがいじめトラウマからの回復というものです。
人間の人生は、現実を受け入れるというプロセスのことです。
現実とは、他者、自分、運命、のことです。
さしあたり他者を受け入れるところからはじまると思われますが、実際的には自分自身(これも人間関係、自分自身との人間関係)をありのままに受け入れることが第一の人生の課題なのです。
なぜならそれが自分以外の現実(他者、運命)を受け入れることを可能にするからです。
そのためには、支援者とつながり、人間関係のリハビリをしつつ、時間を費やさなければなりません。時間はいい意味でも悪い意味でも、人を変えていきます。人は、日々変わっていくものです。
1年、2年、の単位では、ほとんど変わらないかもしれませんが、5年、10年、20年の単位では必ず変わっていきます。
10年、20年もかかると言われて気分が悪くなるかもしれませんが、特定の支援者をもちつつ、知識を蓄え、人間関係のリハビリを続けて、時間を費やすことで、必ず、トラウマから解放されていきます。
生きるのが今より楽になる時が必ず来ます。
学校時代のいじめが、自分の人生を全部を規定してしまうほど、人生はつまらないものではないし、また甘いものでもありません。
もちろん物理的に一生涯の規定を受けることはあります。例えば、いじめが引き金で心的・身体的に障がい者になってしまうとか。
でも先ほども言ったように、人生とは現実を受け入れるプロセスのことです、どんなに物理的な制約が与えられても、それをいかに受け入れて自分のものにするのかが、人生ということなのであって、その受け入れ方にその人の個性が立ち現われるのです。それがその人の個性なのです。
すなわちいじめ体験が、「その人固有の人生」を奪うことなどできないのです。
そしてもし自分のトラウマ(否定体験)を、やさしい眼差しで(今は陰惨な眼差しかもしれませんが)見れるようになった時、いじめ体験もまたあってよかったと思えるようになるのです。
それはもしかしたら、40代、50代になってからになってしまうかもしれません。でもきっとそんな風に思える時がきます。そしてそうなれた時、
「まだ取り返しがつく」「何という喜びだろう」と思えるのです。
その瞬間が来るのが、たとえ死の間際であったとしてもです。
⇒ 『イワンイリッチの死』トルストイ作、岩波文庫
いじめトラウマで苦しんでいる読者さまが、なんとか生き抜いて、自分の人生を取り戻し、誇りある自分存在に立ち還っていかれることを心から祈りたいと思います。
わたしたちは、社会的には非力で何も貢献できないかもしれないけれど、苦難をなんとか持ちこたえて、自分の人生を取り戻すことは、わたしたちのできる、唯一の、そして最大の「人類への貢献」*であり、それがわたしたちが天から授かった仕事なのではないでしょうか。
*個人が自分の人生を取り戻して、自分の人生とひとつになることは、他者・隣人とひとつになること、ひいては人類がひとつになることの大前提なのです
親愛なる読者さま
つらい悲しいのときにあってもまた、やさしい慰めもありますように。
しもむらじゅんいち