- 投稿 2018/02/13
- コラム
以前の記事で、
おのれの精神性の深さに対する自負心こそ、人間の究極のプライド(名誉心)ではないか、
と書きましたが、つまり、わたしは、プライドと誇りを区別しているわけです。
プライドprideはむろん、英語で、意味を引くと、「誇り、自尊心」とありますので、したがって日本語の「誇り」と意味の上では、違いはないわけです。ですがわたしはこの二つを使い分けています。
以前の記事で、
おのれの精神性の深さに対する自負心こそ、人間の究極のプライド(名誉心)ではないか、
と書きましたが、つまり、わたしは、プライドと誇りを区別しているわけです。
プライドprideはむろん、英語で、意味を引くと、「誇り、自尊心」とありますので、したがって日本語の「誇り」と意味の上では、違いはないわけです。ですがわたしはこの二つを使い分けています。
こんにちは、しもむらじゅんいちです。
7月4日のミーティングの中から少し振り返りたいとおもいます。なんだか、仲間の話をきいていて、じゃあ一体どうしたらいいの?と思ってしまいました。
いじめって簡素化していえば、ある集団があって、その中で、誰かが、一人もしくは複数の人からいやがらせを受ける、ということだと思うのですが、でもそこには、なんらかの自由があるとおもうんですね。
さて、かれこれ、もう20年近く前のことですが、いまでも印象に残っている言葉があります。
わたしが21歳の時のこと、当時わたしは、毎週日曜日の役者養成所、通称「日曜塾」にかよって、お芝居の勉強をしておりました。まだ入って、2、3カ月でした。稽古が終わって、師匠と弟子たちとで、飲みに行きました。それは毎度のことで、今でいう飲み二ケーションと言うところでしょうか。