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前回の記事では、どうしても守らなくてはならないものは、自己肯定感であり、その根拠だ、という話をしました。しかし世間的価値観を根拠にして自己肯定している限りは、それはいつも頼りなくどこかで不安が残ります。
いつかリストラされるのではないか、いつか大病を患うのではないか、いつかひとりぼっちになるのではないか。人は大抵、自分の弱いところは見ないようにしているのではないでしょうか。
そのなけなしのプライド(自己肯定のひとつのあり方)を世間的価値観という根拠で保とうとしているわけです。自分は卑怯だということ、臆病だということ、利己的だということ、自分には人間的に欠点があるということ。本当は自分は人間的に弱いのに、それを自分が直視するのは自己否定的に感じられてつらいので、防衛して見ないようにするわけです。
防衛とは、自己の現実(自己肯定不全= 自己否定感)の直面化からの防衛のことです。
防衛には、2種類あると思います。
一つ目は、気ばらし(気散じ)をすること、です。つまり気ばらし(気散じ)している間は、直面化から逃避できるというものです。正常系の気ばらしは、いわゆる一般的に言うところのストレス解消行為です。スポーツや趣味などに没頭することや、適度の飲酒なども入るかもしれません。
異常系の気ばらしは、いわゆる各種依存症(アルコール依存、ギャンブル依存、対人関係依存、摂食障害、うつ)などです。異常と言うのは、自己肯定の根拠が大きく破壊されているか、自己否定の程度が強度で、またそれから気散じするためにする依存行為のおかげで、社会生活に支障を来たす程度であるということを意味しています。人格そのものが異常ということでは決してありません。
もうひとつの防衛の手段が、悪(破壊)行動、だと思っています。つまり、他者の自己肯定感を破壊することによって、自己の現実(自己肯定不全、人間的欠点)を見ないようにすることです。ここでいじめの話に通じてくるわけです。
引き金になるのは、嫉妬ではないかと考えます。嫉妬とは、他者の自己肯定感に対して脅威を感じることからはじまります。
他者の自己肯定感が、自分にまぶしく見える時、同時に、自分の自己肯定不全(人間的欠点)も照らされてしまうのです。そしてそれはけしからん、そんな風に自分をみじめな気持ちにさせるやつなど生かしちゃ置けねえ、という話になるわけです。相手の自己肯定感が嫉妬の対象と言うことは、破壊する対象は、相手の自己肯定感になるわけです。つまり、相手を不幸にすることが、嫉妬の最終的な目的となるのです。具体的には、相手に自分はダメな奴だと思わせることです。
それをわたしは人の不幸のことだと思っています。
と同時に相手が不幸になることで、再び、自分に照らされていた自己肯定不全(自己の人間的欠点)を闇に葬り、見えないようにするわけです。
いじめや、大人ならハラスメントといった、人の自己肯定感を破壊する行動の根底にあるのは、自分の自己肯定感の根拠の脆弱さ、または自己否定感の根拠(人間的欠点)を直視しすることからの逃避にその根があるのではないかとわたしはおもいます。
しかしその直視からの逃避は、正に自己を守ること、すなわち自分を防衛することから来ていることなのです。
ここから抜け出るためには、まずは自分の弱さをみとめ、受け入れていくことを、ひとりひとりが実現していくことではないかとおもいます。
そしてそれは簡単なことではありません、とても苦しいことです。
しかしそれが本当にできるのは、自分の弱さ醜さに一番直面させられた人たちではないでしょうか。
いじめサバイバーの苦しみがそのための苦しみであり、やがて自己の絶対的受容という花を咲かせることへとつながっていきますように。
そして本当の意味での自己受容の花を咲かせることだけが、一個人が社会や世界に貢献できる唯一のそして最大のことなのだと信じます。
読者さまのその苦しい道のりにあってもまた、たくさんの慰めがあるよう年の終わりに祈りたいと思います。(2015.12.31)
親愛なる読者さま
つらい悲しいの時にあってもまた、やさしい慰めもありますように。
しもむらじゅんいち