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いじめはわたしの人生を台無しにしたか?
ということについてじゅんいちの考えるところを書きたいとおもいます。
自分を振り返るに、たしかに中学3年のころ思い描いていたあこがれの理想の自分は、いじめ体験によって打ち砕かれ、そこからつながるはずであったろうわたしの人生は台無しになりました。
いじめ後にあって、その「台無しになってしまった感」は、いつまでも残り、それは非常に長くわたしを苦しめました。
しかし、いじめがあってから、27年の歳月がたち、その間に、自分なりに立ち直れた・克服できたというふうに思えるようにもなったいま、よくよく思うのは、わたしの人生はいじめのために決して台無しになどなっていなかったのだ、ということです。
いじめトラウマから克服できたというのは、つまり、そのままの自分を肯定できるようなった、ということです。いじめられた過去をもつ、無様な失態をした、そんな自分も含めて自分を肯定できるようになれたということです。
そしてわかったのです、自分の理想が、「自分」なのではなく、自分の現実・体験が、「自分」なのだということに。
(そして、現実は、なんでもありです)
理想は大抵自分勝手なものですし、いつでも、ぶっ壊れる・ぶっ壊される危険のあるものですが、自分の現実・体験は、決してぶっ壊れないのです、どんなにつらい体験でも、どんなに楽しい体験でも、どれも自分の体験であり、それは自分がコントロールする以前に、すでに何か(運命?!)によって決定されていて、「自分」とは、与えられた現実を受け入れながら存在する、という「体験」のことであり、「自分固有の体験」のことを「自分という出来事」というのです。
自分とは、「(自分の)体験・現実・出来事」のことです。
「下村順一」という、ものがあるのではなく、
下村順一は「下村順一する」という出来事なのです。
それは、自分だけに与えられた体験・現実を、自分だけのものとして生きるということです。
「下村順一する」のは、下村順一だけです。
下村順一の運命を生きることができるのは、下村順一だけです。
そして、「下村順一という出来事」は、古今東西未来永劫、たった一度きりのかけがえのない存在なのです。
そこまで、思いめぐらした時、わたしが「下村順一する」ことは誰にも妨げられないし、誰にも邪魔できないし、まして、下村順一の人生を台無しにすることなど、本来的に不可能なのだということに気付いたのです。
だれも、わたしから下村順一を奪うことはできないのです。
なぜならたとえ、誰かがわたしから命を奪おうとするときでさえ、わたしはそういう下村順一の運命を生きているのですから。
つまり、下村順一しているのですから。
命を奪われるのも下村順一の体験だし、死ぬのも下村順一の体験なのです。
どれもかけがえのない下村順一の体験・現実・出来事なのです。
長くなってしまいました、分かりづらくなってしまったようです。
ただわたしは「自分の体験・現実のかけがえのなさ」、ということに思いをはせることができるようになったとき、いじめで自分の人生が台無しになったという思いから解放され、
わたしの人生を台無しにすることなど、誰にもできないし、原理的に不可能であることを理解し、わたしの心にはいつしか安らぎがすまうようになったのです。
もちろん、怖い思いや痛い思いはしたくないけど、そういう不安もなくはないけど、これからもわたしは、ずっと、下村順一の人生を歩み続けることができると確信したのです。
補1)ここでは、体験=現実=出来事、とほぼ同じ意味で使っています。
補2) 現実は何でもあり、ということについてはまた別の機会に書きたいと思います。