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今日は、「苦」をテーマに改めて考えていたことを書いてみたいと思います。
短く、サクッと(←苦手)いきたいとおもいます。
苦しみ(痛み)の根っこにあるのは、自己否定感だとおもいます。
自分はあってはならない、要するに、自分はダメだ、ダメ人間だ、というのが自己否定感をよく表現しているのではないかとおもいます。
私も10代から20代にかけて、さんざん自己否定感の辛酸を嘗めてきましたが、どんなにがんばっても、やはり自分はダメなんじゃないかとおもいついた時の、青ざめ加減は、失望感は半端なかったです。
ていうか基本ずっとそう思っていたわけですが。
いまそのように思っている人がいたら本当にかわいそうだし、そばについていてあげたいおもいにかられます。そばにいてなんかくだらない話などして、時間を費やすのを手伝ってあげたいとおもいます。
そばにいて雑談して何になるのというかもしれないけれど、そうしてもらっている間だけはつらい気持ちから離れることができるから、気がまぎれるから。そうでなければ一日中自己否定感の思いにとらわれていなければならない人がいるのを知っているから。
苦の話に戻ります。抽象的な言い方をしますが、
苦(自己否定感)とは、本来絶対的存在である自己(自分)が他者から相対化(もの化)され、否定されることによって生じる痛みのこと。
しかしそもそも人間は、一人ひとりが絶対的な存在なのだ、なんてことをどう説明したらいいでしょうか。
それより先に「他者からの相対化(もの化)」を説明したほうが早いかもしれません。いじめの例がわかりやすいのです。
いじめ加害者(他者)が力づくで自分のことを支配下においた(所有した、もの化)した。
支配できるのは、相手を自分の所有「物」だと思っているからです。そしてその字のごとく所有することができるのは、「人」ではなくて、「物(もの)」です。だから支配とは、その関係が成り立っている限りで、相手を人ではなく、物として扱うということです。
なんで目の前にいる人を、人ではなく物扱いできるのでしょう。わたしが考えてきたのは、なんらかの仕方で、加害者には、「力」の点で、相手よりも優位性があって、その優位性のあるところの力を行使して、相手を打ち負かして、相手が物になることに甘んじさせたからです。
物になることを甘んじさせるとは、物扱いすることを相手に許容させるということでしょう。パシリに「使う」とか、「サンドバッグにする」とか、いろいろな仕方で物扱いされるわけです。この物扱いというのが、「もの化」ということです。そして相対化とは、なんらかの基準で、物と物の価値を比較すること、人間関係においては、やはりなんらかの基準(それは腕力かもしれないし、社会的地位、経済力等かもしれない)で、相手との上下を断定し、差別化することです。物とは比較できるものであり、何らかの基準で比較することが相対化するということです。
しかし人は物じゃないから、そもそも比較できないものでしょう。確かに身長が高い低い、年収高い低いという基準で、比較することはできるけど、人の本質はそんなところにはなくて、むしろ人間の本質は他と比較できないところにこそあると思うのです。
その人の他と比較できないところこそ、人間の本質的な部分であって、それがその人の「本体」なのであって(身長とか年収とかいうのはいわば付属品でしかない)、そのことを人の絶対的な存在性格と呼びたいのです。
人が他者に相対化(もの化)される時、その人の「本体」の部分が痛くて悲鳴を上げているという状態がまさに苦ということであって、自分の側からいえば、絶対的な存在としての自己が相対化され踏みにじられる感覚、それが自己否定感ということになるでしょう。
ちなみに自分の付属品を相対化されるのは、本来は痛みを伴いません、なぜならそれは自分の本体ではないから。しかし、その付属品(年収が高い)ということが自分の本体だと思っている人には、それを相対化され(否定)されるのはとてもつらいことになるでしょう。
わたしの場合も、いじめ加害者の「彼」は、わたしの「知能」を侮辱しましたが、知能もやはり付属品で本体ではないのですが、それを見極める分別のなかった当時のわたしは、その付属品を人間の本体だとまくしたてる「彼」に圧倒されてしまい、それが自分の本体だと思い込んでしまい、ものすごい自己否定苦に陥ることになったのです。
苦とは、自己否定感とは、自己の本体である絶対的な存在性格を、相対化され否定されてしまったと思ってしまった時に起こる、自分の本体からの悲鳴なのではないでしょうか。
ところでどうして人は、人を相対化(もの化=否定)するのでしょう?
親愛なる読者さま
つらい悲しいの時にあってもまた、やさしい慰めもありますように。
しもむらじゅんいち