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以前の記事で、人は自己否定感を感じるのが一番の苦という話をしました。
それは絶対的存在であるところの自分がモノ化され、相対化される(比べられる)ところの痛みだと言ったかと思います。
どうして絶対的存在者*であるはずのものが、相対化の痛みを食らわなければならないのでしょうか。
* 絶対的存在者:この言葉が何を意味するのかはきちんと書かなければならないのですが、結論的には、唯一無二の存在(何にも誰にも比較することができないし、侵すこともできない存在)ということになります。読者様も、唯一無二の存在という意味で絶対的存在者です。
世間的価値と相対的自己肯定
それはそもそも「世の人」(人は、さしあたり大抵は世の人です)が自分を絶対的に自己肯定せずに、相対的に自己肯定していることに原因があります。
相対的自己肯定とは、条件付き自己肯定と言い換えることができるし、絶対的自己肯定とは無条件的自己肯定と言われるものです。
世の人は、さしあたり大抵、世間で生きていかなければならず、したがって、世間の価値基準にのっとって生きているのです。だからの「世の人」なのです。
世間の価値基準とは、煎じ詰めると、「金」と「制度*」 です。
*組織に所属していること、組織の中で制度は保証されます
一昔前に、理想の結婚男性像を3Kといっていましたが、
高学歴、高身長、高年収、
といったように世間(市場経済システムと消費的大衆)は、様々な価値基準をばらまいており、世の人はそれを追い求めるわけです。
しかし、世間が提供する価値は、その価値自体が相対的なものであって、まず比較(差別)が前提になっているし、その価値自体が可変的なものなのです。
高年収の人が、リストラで会社を首になったら、「高年収のおれ」は、その世間の価値基準から落ちこぼれてしまうし、「高身長の男性と結婚したあたし」も、その夫が事故を起こして半身不随になってしまったら、その世間の価値から落ちこぼれてしまうのです。
そして世間(自分)の価値基準にのっとって生きていられる場合はいいですが、上でみたように、もしそこから外れると、簡単に自己否定苦に落ち込むし、またそれを見ないようにするために、新たに、穴が開いたところを補完するような新しい世間的価値を見つけて、それを手に入れることに必死になります(ある時は人をたたいてでも)。
しかし、一方で世の人は、この自分の拠り所にしているものが、脆弱なもので、すぐ変わってしまうかもしれないことを知っており、しかも競争社会のシステムの中に組み込まれていることも気付いているのです。
世の人は常に不安と緊張とストレスの中に置かれているというのが実際的なところではないでしょうか。
しかし、世間的価値基準しか見えてない人は、執拗にこの価値を追い求めます。
それは、わたしたちは、自己否定していては苦しくておられず、自己肯定するためにはなんらかの根拠となるものが必要だからです。
たとえ相対的であっても、その価値を手に入れれば、世間的には自己を肯定することができる、自分はあっていいのだと思える、その一心できっと世間的価値に食いつくのです。
そしてそれを死守しようとするのです。
それとは世間的価値であり、それに裏付けされた自己肯定感です。
自己肯定の根拠を直視することから逃れるための防衛
どうしても守らなければならないもの、それは自己肯定感なのです。自己肯定感を得てはじめて人は、「安心」するのです。
この場合の安心とは、経済的安心とか健康的安心とかそのようなものではなく、自分はこの世にあっていいのだ、存在していていいのだという安心感です。
これがないと、とてもこの世で生きていくことは頼りなく苦しいことでしょう。
どうしても守らなければならないものは、その人にとっての自己肯定の根拠です。
しかし、世間的価値を根拠にしている間は、常に不安と緊張とストレスの中におり、人の生命力はかえって委縮します。
そこで相対的でない自己肯定のあり方が求められるのですが、それにはなかなか気づかれません。なぜならあまりにも小さい時から世間的価値基準を拠り所にすることに慣れさせられてしまっているからです。
このように相対的自己肯定は実は脆弱な危ういものである一方で、人々がおのれのコンプレックスや空虚さをみるのは、あまりにもぶざまで苦しいことなのです。
そこで、このおのれのコンプレックスや自己空虚感を自分がみないようにするために、世の人は様々な方策(ごまかし)を試みるのですが、その一つが、他者をたたいて優越感を得ること、ということになるわけです。
しかしその本質は、自己直視から逃れるための防衛なのです。
注:しかし世間的価値(世間的成功)を追求することが悪だと言っているわけではありません。それしか追い求めるものを知らないのが問題なのです。
親愛なる読者さま
つらい悲しいの時にあってもまた、やさしい慰めもありますように。
しもむらじゅんいち