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2016年2月20日、NHKの特集ドラマ「海底の君へ」というドラマが放映されました。
いじめサバイバー(いじめ後遺症者)を描いた作品と言うことで、興味をもって見ました。
いいドラマだったんじゃないかと思います。
中学時代のいじめで深い傷を負った主人公がその後、長きにわたり、そのことで苦しみ、精神的にも社会的にもいわゆる一般的ではない10代、20代、30代を送ることになるということをしっかり描いていてくれたことがよかった。
対人恐怖症で人の中に入っていけない、体調不良でアルバイトもなかなか続けられない。フラッシュバック。
そんないきづらさを背負って生きている30歳の青年を描いてくれたのは、いじめサバイバーとして共感できるところが多かったし、そこにはいじめサバイバーのひとつの日常的な風景が描かれていたと思う。
それを当事者(いじめサバイバー)じゃない人にも見てもらえたのはよかった。
ヒロイン役の成海璃子さんはとてもきれいで、あんな女性に出会ったら、確かに世の男性いじめサバイバーも心ときめくとおもいますが、実際にはそんな出会いまずないんだよなー、そこがフィクションだよなー、としみじみ思いました。
あんなに簡単に打ち解けて、あんなに簡単にいじめのこと話して、あんなに簡単に号泣するなどということはまずないよねー。
彼女の存在はフィクションのたまものだし、だからこそ、最後の展開があって、破局に終わらず、刑務所からの再開と共に前へ進んでいこうとする主人公の姿で終われるのでしょう。
ヒロインの弟も学校でいじめられていて、もう学校に行かないと言い出したとき、確か学校に(?)「いじめのことは言わないでくれ、いじめのことを認めることになるから」と、弟が言うとヒロインが主人公に伝える海辺のシーンがあります。
これはぼくが知る限り精神科医の斎藤学氏が昔の本の中で語っていたことを引用したように思いましたが、わたしはちょっと意見違います。
自分がいじめられていることは、なによりもまず自分自身が死ぬほどよくわかっていて・認めているのですよね。
そんなこと学校に認めてもらうまでもない。そしていじめのことを知られたくないのはやっぱり親・家族で、なぜ知られたくないかと言えば、いじめられていることが当人にとっては、だめ人間、人間のクズ、ごみ、だということの証だと思いこまされてしまっているからなんであって、いじめを認められるということはそのことを公に周知されてしまうことを意味しているからなのだと思う。ごみはごみ扱いされる。だからそれだけはどうしても死守しなければならない。
詳しくはこちらの記事もどうぞ:いじめのことを親に言えない本当の理由
ヒロインの弟が自殺未遂をおかしますが、主人公はヒロインの姉に、弟に対して「君は悪くない」と一生言い続けてくれと伝えにいきます。
人をいじめていい正当な理由など絶対にない。いじめとは、相手を攻撃して、その人自身を自己否定的にすることです。
自己否定的にするとは、自ら自分はダメ人間だと思うようにさせることです。
それへの一番の薬は、当人に「君は悪くない」と本人が得心がいくまで言い続けることなのかもしれないですね。たとえ得心がいくのに、5年、10年、20年かかるとしてもそれを言い続けてあげることなのかもしれません。
元いじめ加害者の立花君役の忍成修吾さんがいい味だしていました。しかし立花君の演出(台本)がやっぱりよかったように思います。忍成さんは、こういう意地悪な役が多いのですよね。今度いい人役もみてみたいです。
エンディング。主人公は、事件を起こして逮捕され、懲役5年の実刑をうけた後、出所します。
主人公は、既に35歳になっています。妹とヒロイン(恋人)が迎えに来てくれて、最後に確か「前へ進もう」と言って、3人で帰っていきます。
その時の主人公はきりっとしていて、やっと本来のかっこいい藤原竜也さんを見られます。
いじめ後は、おそらく5年収監されたからと言って終わらないでしょう。しかし、主人公の場合は、いじめ加害者のボス立花を土下座させて謝らせています。これくらいの復讐をやったら、清算できるものなのでしょうか?いじめサバイバーは浄化されるのだろうか、という疑問が残ります。
いじめの問題は、時間がたって、加害者に復讐したら、膝まつかせたらおしまいなのだろうか(しかし現実的にはそんなことまずないでしょうが)。
いじめの本質は、いじめ被害者を自己否定的にさせること。そしてその克服は自らの否定的体験も含めた自分を自己肯定できるようになることなのだとおもいます。
いじめ加害者は被害者にとって人生を変えるきっかけになったかもしれませんが、復讐しようにも、とっとと死んでしまうかもしれない。
だから、いじめ問題・いじめトラウマからの解放は、いじめ被害者自身の否定体験をもう一度否定すること、つまりあっていいことだったと肯定できるような心的境位へと到達することの内にあるのだとおもいます。
それには、時間がとてつもなくかかるかもしれないですが、周囲が辛抱づよく慰め・励まし、そして心が熟していくのを待ち続けることなのだと思います。
今この日本と言う国が、社会が、人が育ち熟していくのを辛抱強く待ち続けることができるような社会であることを願います。
現実にはそれはかなり厳しそうですが、やはりまずは当事者の私たちから、それをはじめていかなければならないのだと思います。
わたしたちいじめサバイバーにはそれをしていく資格があるのだから。
最後になりますが、主人公は、35歳にして、前科もちとなって出所してきます。
それは悲劇的結末でしょうか?
彼の人生は狂わされ、台無しにされてしまったのでしょうか?
今私が思うのは、彼の人生は、一般に思われるような10代、20代、30代ではなかったかもしれないけれど、それは台無しになったということではなく、いじめの体験は、彼独自の固有の人生が開かれる瞬間であったと考えたいのです。
それは決しては、不運とか脱線とかではなくて、それ全体が、彼自身の運命だった(『デミアン』)のだと思うのです。
主人公の彼だけでなく、わたし、そしていじめサバイバーにとって、いじめ体験がその人自身の固有のユニークな人生を紡ぎだしていくための、過酷ではあれ、そのきっかけなのだということを覚えていることができますように。
関連記事はこちら:いじめはわたしの人生を台無しにしたか?!
たとえどんないじめでも、その人の人生は奪えない、その人の存在を傷つけることはできない。
傷つけられるのは、その人の肉体的心理的なものだけなのだ。
以上、NHK特集ドラマ「海底の君へ」の感想とわたしの考えを書いてみました。
親愛なる読者さま
つらい悲しいの時にあってもまた、やさしい慰めもありますように
しもむらじゅんいち